桶川ストーカー殺人事件

1999年10月26日、埼玉県桶川市で、当時21才の女子大生が元交際相手によって殺害された事件である。
この事件が注目を集めた要因は、被害者側が何度も埼玉県警に対し相談をしていたにもかかわらず、県警の怠慢な態度によって、最悪な結果を招いてしまったところにある。
この事件を機に、後に成立するストーカー規制法のキッカケとなった。
この事件では国家賠償請求訴訟まで発展し、当時対応にあたった担当警察官らが有罪判決を受けるに至った。

●ストーカー行為のはじまり
元交際相手である当時27才の小松和人(以後「K」とする) と、その兄小松武史(以降「T」とする)、さらに、兄弟らが雇った男、久保田祥史(以降「H」とする)の3名により、殺害された。
交際相手であるKは、女子大生に対しウソの名を語っており、年齢もごまかしていた。
Kは風俗店を経営するいわば裏社会の人間であったが、女子大生には職業も偽っていた。
Kが異常性を見せはじめたのは、女子大生と交際をはじめて間もなくの頃である。
有名な話として、犬の散歩をしているところにKから電話がかかってきて、「今何をしている?」と聞かれた女子大生は、犬の散歩そしていると答えると、「俺をほっておいて犬の散歩とは何事だ!!その犬をぶち殺すぞ!!」とまくし立てた一件がある。
このあたりからKの異常性が活発になってくる。
そんなKに不信感を覚えた女子大生は、Kに別れ話を持ち出した。
するとKは激怒し、自宅の固定電話や友人の携帯にまで電話をかけるようになった。
Kの行動はさらにエスカレートし、兄のTと雇ったHを自宅に押し掛けさせるなどした。
また、交際を続けなければ本人だけではなく、家族にまで危害を加えると脅すようになった。
さらに、交際の強要にとどまらず、500万円を要求するなど、Kの行動はさらに悪質なものとなってゆく。

●Kの悪質な嫌がらせと警察の怠慢な対応
Kの行動はさらにエスカレートし、女子大生の自宅周辺や大学、父親の勤務先に、事実とは異なる誹謗中傷のビラが貼られた。
そのビラを持って警察に相談するも、「この紙は良い紙を使っていますねぇ、大学の試験が終わってからでも良いのでは?」など、あきれ返るものであった。
また、一度は告訴状を受理するも、警察署員が勝手に「被害届」にするなどし、さらに被害女性の母親に対して、告訴状を取り下げるよう説得する始末であった。
そうこうしている間にもKの行動は止まらない。
女子大生の父親の勤務先に800通もの嫌がらせの手紙を送りつけたり、深夜に女子大生の自宅前に車2台をつけ、大音響を轟かせるなど周囲をも巻き込む嫌がらせを繰り返した。

●犯人逮捕とその後
犯人逮捕後、週刊誌などの報道で犯行に加わった人数は12人にのぼることが判明した。
ほとんどが嫌がらせのビラまきなどだが、ストーカーグループの人数の多さも世間を騒然とさせた。
警察関係者では懲戒解雇3名、他5名が減給処分を受けた。
特に懲戒解雇となった3名については、虚偽有印公文書作成の罪などで有罪判決を受けている。

国家賠償請求訴訟においては、行政裁判になると被告である警察側は、「この事件は単なる男女の痴話ゲンカだ」と反論した。
裁判所は警察側に対し有罪判決を下すが、損害賠償額も550万円と少ない上、警察の対応と殺害との因果関係は認められないとする内容だった。
遺族側は即座に控訴したが、世間からは金目当てだと冷ややかな視線を浴びる事となる。
一方、民事訴訟では最高裁まで争われ、殺害や名誉棄損に加わった17名に対し、合計1億250万円の支払いを命じる判決が下された。

★★筆者の目線★★
この事件発生当時、警察の民事不介入は原理原則であり、男女間の痴話げんかに警察が介入することはありえない時代だった。
しかし、当時相談を持ちかけられた警察官は社員旅行を控えており、面倒な相談は受けたくなかったという理由から、「告訴状」を「被害届」に改ざんしてしまう暴挙に出た。
この行為は到底許されるものではなく、断罪されてしかるべきものだ。
こうした警察官の対応には、もはや怒りを通り越してあきれるばかりである。
唯一この事件が齎した産物として、後に制定されるストーカー規制法に大きく貢献した事である。
突き動かしたのは世論であることは間違いないし、遺族の件名な活動も非常に大きい。
こうした被害者遺族の活動は、この事件が発生して間もなく起きる光市母子殺害事件において、遺族である本村洋氏の壮絶な司法との戦いで再び脚光を浴びる事となる。