新潟少女9年間に及ぶ監禁事件

その男は、1990年11月13日、犯行に及んだ。
当時28才の佐藤宣行(以降Sとする)は、新潟県三条市内で当時9才の少女を誘拐し、自宅に監禁した。
犯行当時、Sは犯行当時、柏市内で別件の事件で逮捕され、執行猶予の身であった。
この事件の被害者も当時9才の少女で、強制わいせつ未遂容疑である。

この事件が大きな話題となったのは、監禁期間の長さである。
犯行は少女が9才の頃に行われ、犯行の発覚が実に9年後である。
監禁中の少女に対する暴行も9年間で1000回は超えるとされている。
その内容は凄惨そのものだ。
最初の1年間は両手両足を縛られ、殴るなどの暴行を加えていたが、次第にスタンガンを使用するようになった。
Sは同居の母親に犯行を気付かれないようにする為、少女にどんな苦痛でも声を出さないよう強要した。
スタンガンを押し当てる時も布団を噛んで声を上げないようにした。
また、スタンガンの痛みに慣れる為、自分でスタンガンを押し当てる訓練もしたという。

●事件の発覚
Sは同居の母親に対してもスタンガンを使うようになった。
母親は保健所に相談し、Sは強制入院する事となった。
1999年1月28日、Sの自宅を保健所職員と市の職員述べ7人が訪れた。
Sは激しく抵抗したが、鎮痛剤を打ってようやくおとなしくなった。
Sの部屋に入ると、毛布が固まりのように盛り上がっており、不審に思った職員は毛布をハサミで切り裂いた。

●毛布から少女発見
職員たちは目を疑った。
切り裂いた毛布から憔悴しきった少女が出てきたのだ。
少女は気が動転しており、職員の質問にはまともに答えられない。
そこで職員は同居の母親にこの少女は誰かと尋ねた。
母親は「知りません」と答えた。
職員が「これからどうする?」と尋ねると、「ここにいてもいいですか?」と母親に聞いたという。
母親は了承したが、職員らが「そういう問題じゃないだろう」と、病院に連れていった。

病院で少女の氏名・住所・生年月日・親の氏名などが確認され、その名前に聞き覚えがあった病院の職員は、三条市で行方不明となった少女の事を思い出した。
すぐに警察に連絡し、警察官3名が病院に急行し、柏署において指紋照合が行われ、行方不明の少女と一致した。
その日の夜には三条市内の母親と連絡が取れ、実に9年2ヶ月ぶりに対面を果たしたのであった。

★★筆者の目線★★
1988年に起きた足立区少女コンクリート詰め事件において、監禁場所となった犯人の自宅には親も同居しており、監禁の事実も知っていた。
しかし、親は少年の暴力に怯え、何もすることができなかった。
新潟監禁事件においても、親は知らなかったわけがないなどの憶測が高まり、非難の声も上がった。
事実、この母親には犯人隠避・ほう助の容疑もかけられ、警察からの取り調べも受けた。
しかし、母親は長年にわたって2階に上がった事はないという証言を裏付けるように、2階部分から母親の指紋は検出されなかった事や、被害者である少女の証言から母親の主張が認められ、罪に問われることはなかった。
だが、足立区のコンクリ事件と新潟監禁事件は共通する部分が非常に多く見受けられる。
まず第一に家庭内暴力だ。
息子の暴力に親は成す術がなく、息子の部屋に入る事などありえない状態なのだ。
ましてや自分の息子でありながら、恐怖で支配され、正常な判断ができなくなっているという精神状態に追い込まれている点も共通する。
また、被害者の精神状態も共通する。
どちらも途中で逃げ出すチャンスはあったはずなのだが、両被害女性はそれができていない。
足立区の方は一度脱出を試みているが、失敗に終わっている。
その時はお仕置きと称してライターで焼かれるなど、数時間にも及ぶ凄惨な暴力が続けられた。
こうした恐怖を植え付ける事で、逃げるという選択肢を完全に排除されてしまっているのだ。
強力な洗脳がそこにはあり、同じような環境課に置かれれば誰しもが洗脳される事は避けられないのだろう。